クソ仕事脱出日記2

S&P 500インデックスファンドで資産形成。準富裕層。どこでFIREに踏み切るか。

ウツの理由

ニートだけではない。仕事している人、学生、現在の職業などに関わらずに、悩みというのは常についてまわるものだ。


俺がニートだったときもそうだ。将来の不安で、途方にくれていたわけだが、そういう状況が現在進行形である人も当然、居ると思う。就職したところで、今度は仕事にいきたくないという悪循環なので、就職したら、解決とはならなかった。俺の場合はな。


なので打開策をさがしまわった。宝くじで一発当てる。短絡的だが、誰もが思いつく。金で解決という発想だとまっさきにみつかるのがこれだが、相当に確率が低いから99%は無駄になる。


精神面での解決法もさがしまわった。本を読むようになったのは、これが理由かもしれない。小説よりも、現状を打破する何かを本にもとめていたから自然と自己啓発本を色々と読んでみたが、今では、自己啓発物はあまり読まなくなった。それはなぜかというと、自己啓発本は、読むと一時的には高揚感が得られたが、それが持続するのはせいぜい2、3日の間だけで、実際には、なにひとつ問題の解決にはならなかった。というのを繰り返したからだ。どれだけそういう本を読んでみても、状況は変わらず、精神的にキツいままだった。そういう人は俺だけではないだろう。


だがある時、これは限りなく正解に近いんじゃあないか?という考え方に行き着いて、昔ほど深刻に悩みを抱えることがなくなる瞬間があった。


諸行無常という言葉があるが、それだ。


言葉の意味は、この世の中で変わっていかないものはなく、そういうものに執着するのは無駄なことだ、という考え方のことだ。そういうのは仏教的価値観とでもいうのだろうか。若い頃の俺には、そういった考え方は理解できなかったが、色々な壁にぶち当たって悩み抜いた今では、言葉の意味を理解することができるようになってきた。悟りに近づいたともいう。


俺なりに簡単に説明すると、人はいずれみんな死ぬから、大統領もコジキも、人生の終着点は同じであり、資産をどれだけ築き上げても、死んだらそこでお終い。金とか名声はあの世にもっていけないから執着するだけ無駄、という考え方だ。ビルゲイツでもそれは一緒だ。死を克服できた人はいない。


こう考えると、じゃあ今からなにをやってもどうせ無駄だから、自堕落に生きようとか、そういうことでもないんだこれが。つまり、なにがいいたいかというと、悩まなくていいことで悩んだりせずに、今を楽しく、快適に過ごせるように工夫しようぜってことだ。


こういう考え方には、いろんな呼び方がついている。適当に上げるから、違うやつもあるかもしれないが、ざっと上げると、空(くう)、悟り、形而上学、セドナメソッド、マインドフルネス、とかまあ、そんな感じで、スピリチュアル系の考え方がそうだ。若い頃、俺にはこういう考え方がまるで理解できなかった。とくに宗教味がかったことが嫌いで、どちらかといえば、こういうのとは対極的な、唯物論を信じていたからだ。


唯物論者の当時の俺にとっては、目に見えることが全てで、生きる意味とかそういうのを考えるのは、アホがすることであり、スピリチュアル的な事を言っているやつらは、よくわからんこと言って、他人をケムに巻こうとしている宗教野郎どもで、目的はどうせ金だろ、程度にしか考えてなかった。


もちろん、そういう宗教野郎達も大勢いるだろうとは今でも思うが、実はそういうものとは紙一重の考え方をしている奴らの中に、限りなく正解に近いところの考え方をしている奴がいて、そして、それが物事を複雑でややこしくしている原因なのかもしれない。最近はそういうように思うことが増えてきた。ちなみに、宗教自体は今でも嫌いだ。


まあ気が向いたらセドナメソッド、レスター博士でしらべてみるとよい。悩みを抱えているならな。


セドナメソッドについて簡単に説明するとすれば、君らが不幸せに過ごしている原因は、他人からもたらされたのではなく、君が自ら生み出したものであって、つまり、苦しい理由は、君の内側にある。逆にいえば、幸せも、他人からもらうのではなく、自分の中にもともとあるものだということだ。愛情をもらうから幸せになるのではなく、愛情を与えるときに幸せと感じているのだと、レスター博士は考えたのだ。


他人の評価に依存する必要はない、という感じのことが書いてある。


いつの時代も、同じような悩みを抱えた人がいる。セドナメソッドは適当にいえば1960年ぐらいに考えられたもので、悩みと真剣に向き合ったレスター博士が考え抜いた答えをそこに記録したものだ。たぶんもっとまえの時代にも、レスター博士みたいな人はいたとおもうが、記録には残っていないのであろう。いつの時代も同じことが繰り返さたが、レスター博士のは偶然記録に残っており、そしてひろまったのだろうかとおもう。


そういう精神的な答えはいらないから、どうやって金をかせげるかを具体的に教えてくれ、という人もいるだろう。物理的に解決するためには方法論が重要であり、ちゃんと具体的に言ってくれ、そういう精神論は聞きたくないんだと。


かつての俺もそうだったからそれはよくわかる。


だが、あらゆる悩みから逃げずに解決策を考え続けているほど、仏教的価値観、つまり、なにをやっても、いずれ死ぬから、そんなに深刻に悩む意味があるのか?というところに必ずぶち当たるのだ。金や、物理現象だけでは解決できない問題があることに気がついたのだ。だから俺は、唯物論ではなく、形而上学的(生きる意味とかを考える学問のこと)考えをするようになったのだ。重要なのは、資産、他社の評価、物ではなく、自分が今、幸せかどうかだからだ。


金があれば幸せだというなら、死ぬときにも、そう言って死んでいけるのかを、考えてみればいいだろう。1億あれば死の苦痛が減るのだろうか?金で、モルヒネが多くもらえるなら、多少はそういえるのか?


俺は金が全くいらないとか、そういう事を言いたいのではない。金があれば、ないよりは自由度があがるから、むしろ大事なものだと今でもおもっている。ただ、それに執着する意味はないと言いたいのだ。俺は、金はただの紙切れだとも思っている。物質的に貧しくならなくては幸せになれないと、人は考えがちらしいが、そういうことではないのだ。無駄に執着せずに、楽に生きようぜ、ということがいいたいのだ。


とりあえず、リンク貼っとく。↓


セドナメソッド-手放す法則-


まあ暇ならみてくれ。それで少しでも、状況がいい方向にゆけば上等だろう。

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